小さい頃の私は飛行機が大好きな少年だった。近所の駄菓子屋で売っていた、スチレンボード製のプロペラ付き組立飛行機を飛ばしたのが飛行機にまつわる一番古い記憶である。

小学生になって、両親が買い与えてくれた「良く飛ぶ紙飛行機集」(二宮康明著)は、衝撃的だった。ケント紙に紙飛行機の部品が印刷されていて、それをハサミで切り抜いて糊付けして組み立てる。翼や胴体のほんの小さなねじれが飛行機の挙動に影響し、それらをバランス良く調整することで校庭が狭く感じるほど、自由に空を滑空させることが出来た。

近所の図書館に行っては飛行機の本を眺めていたが、当時特に興味を持っていたのが第二次世界大戦頃の世界の戦闘機である。イギリスのスピットファイア、ドイツのメッサーシュミットやフォッケウルフ、アメリカのP51ムスタングやロッキード P-38 ライトニング、日本の有名な「ゼロ戦」こと零式戦闘機。それぞれ性能に長所、短所があり、デザインもまた個性的だった。

「零式戦闘機」(柳田邦男著)は当時の私のバイブルだった。堀越二郎氏を中心とした設計チームが当時世界最高の性能を持つゼロ戦の開発に成功するまでの物語で、西欧に遅れをとり続けてきた日本の航空機技術が幾つもの試作機を経て、ゼロ戦によってようやく世界を追い抜くのである。

飛行機に対する憧れはスポーツに熱中した中学高校時代には影を潜めていたが、大学受験を控え、進路を決めるときにはやはり航空学科を志望していた。しかし、ゼロ戦当時と違って現代の航空機開発の現場は巨大な組織の中でより細分化され、デザインも洗練(つまり画一化)されていた。それは私が憧れたような世界でないことは明らかだった。また、敗戦後の日本は連合軍に航空開発を禁止されていたため、日本の航空技術は世界の最先端からひどく遅れたものになってしまっていた。

結果的に私は建築を学ぶことにした。建築家の名前も、有名な建築物も何一つ知らない私であったが、今思うと建築の世界ならば自分にも「ゼロ戦」を造れるのではないかという気がしたのかも知れない。飛行機のデザインというのは、見てくれの善し悪しではなく、色々な機能や性能を追求した結果として生まれてくるものである。第二次世界大戦の頃の飛行機がとても個性的だったということは飛行機に対する考え方もまた、多様であったということができる。ゼロ戦も、戦闘機にとって必要な性能を取捨選択する(防弾性能を求めない)ことで当時世界最高の運動性能を可能にしたのである。

建築に求められるもの、それは建物の場所や、機能や、使う人の価値観によって全く異なっている。現代建築の世界も現代の航空機と同じく似通ったデザインが目立つが、それでも建築の多様さは航空機の多様さの比ではない。そういうわけで、私は今でも難しい敷地や風変わりなクライアントに出会うと、「ゼロ戦」のような建築を造れるのではないかという期待でわくわくしてしまうのだ。

「京都建築学園 建工会会報」(2003年11月 掲載)