カタランボールト@コロンビア


スペインに滞在中に出版された日本の建築雑誌をパラパラと見ていたら、A+U2008.03号の表紙を見てピピッときた。コロンビアの建築家、ロヘリオ・サルモナRogelio Salmonaの特集号。この天井、カタランボールトちゃうの?
以下は彼の略歴抜粋。

ロヘリオ・サルモナは、1927年4月28日、パリにてスペイン人の父とフランス人の母の間に生まれ、幼少期にコロンビアへと移住した。その後コロンビア国立大学の建築学科に入学し、建築を学び始めたが、1948年の内乱を機にパリへと移住し、10年近く建築家ル・コルビュジエのもとで働き、ジャウル邸などを担当。またその間、デザイナーであり建築家でもあるジャン・プルーヴェのもとでの協働も経験している。
1957年の終わりに彼はコロンビアへと帰国し、ボゴタに居を構えたサルモナは、北アフリカからスペイン南部にみられる建築の伝統に根差した作品を矢継ぎ早に発表し始めた。そこには、ムーア人の影響が顕著であり、さらにイベリア人のアメリカ大陸上陸に端を発した南米固有の文化の痕跡があった。
それから50年間以上にわたり、サルモナの生みだし続けた新たな建築はコロンビア国内の建築シーンを独占した。煉瓦という素材はそれ以降も彼のお気に入りの素材の1つであった。
1980年代のはじめにはサルモナの活動はコロンビアのみならず国外にも知られることになり、コロンビア国内の建築賞はもちろん多くの国際的建築賞を受賞している。コロンビア共和国建築賞(1986年、1988年、1990年)、アメリカ建築家賞、汎米建築家協会コスタリカ支部(1999年)、アルヴァ・アアルト・メダル、フィンランド(2004年)、米国建築家協会(AIA)名誉会員(2006年)、ヴェネツィア・ビエンナーレ建築部門金獅子賞(2006年)など。
ロヘリオ・サルモナは2007年10月3日に80歳でこの世を去った。

なるほどと思ったのが、彼はパリ生まれなのだがスペイン人の父を持つということ、そしてコルビュジエのアトリエで働くのだが、そこで担当した作品の一つがカタランボールト屋根を持つジャウル邸だった、ということ。

コルビュジエは1928年に初めてバルセロナを訪れ、そこで見聞きしたカタランボールトのスケッチを何枚も残している(図はガウディのサグラダファミリア付属学校の屋根のスケッチ)。その後もコルビュジエはバルセロナを訪れるたびにカタランボールト工法の詳細なスケッチを残しており、この工法に大変興味があったことは疑う余地がない。そしてその後の彼のいくつもの作品にボールト屋根が現れる。ジャウル邸(写真下 1937-54)、サラバイ邸などで我々はコルビュジエの作品の中に使われたカタランボールト天井を見ることができる。(カタランボールト工法とコルビュジエの関係は、カタランボールトの文献では必ず言及される有名な話である)

おそらくサルモナはジャウル邸を担当する中で、このカタランボールトに興味を持ち、詳しく学んだはずである。もしくは、既にコロンビアにいた頃に、カタランボールト工法はスペインから伝わっていて、知っていた可能性もある。そしてこの中東起源の伝統的な工法が、コルビュジエによって現代建築の中で美しく使われうることを目の当たりにした。そして祖国コロンビアの地で安価で合理的なカタランボールト工法による作品をたくさん生み出した、というストーリーは想像に難くない。
コロンビアはスペインの旧植民地でスペイン人移民がたくさん住んでいたから、その中にカタランボールト工法の熟練した左官職人もいた可能性は高い。建築家がいくらがんばっても、職人がいなくては建築は生まれないのだから、サルモナの作品は彼ら左官職人によってコロンビアの地で実現することができたはずである。
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そう考えてくると、今度気になるのはインドのアーメダバードに建つサラバイ邸のカタランボールト天井である(写真)。果たしてどうやって、コルビュジエはインドの地でこのカタランボールト天井を実現することができたのか。興味は尽きない。

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1 Comment

  1. へーー。こんな人がコルのアトリエにいたんですね。やっぱり世界中の人が集まってるって面白い。私はコルにカタランボールト教えたのはホセ・ルイ・セルトに違いないと思ってましたが、そうじゃないかも。

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