ガケ崩れ@静原 と大学の設計教育について雑感

暑い。暑いがプロジェクトは着々と進む。今月に入って住宅が二軒着工。
最近デジカメを持ち歩くのを忘れることが多く、あまり現場の写真がないのだが。
ここしばらくの事件と言えば、先日の大雨で事務所の正面の土手が崩落。えらいことになったと思いながら滋賀県方面に車を走らせると、あちこちでガケ崩れ、あげくの果てに通行止め。当たり前のように思っていた場所が突然脆くも崩れ去る、大雨は恐い。
気候が良くないのか、今年の畑の野菜は大不作。
唯一、事務所前のブドウはすくすくと育っている。
めざせ、ズントー事務所。
18日、京都建築スクールのphase 2 発表会を飛び入りで見学してきた。都市をつくるという課題が、そのルールのデザインから始まる、という課題の設定が秀逸だ。今回は、「アクティビティのルール」をというテーマ。個人的には、つくられたルールの運用が、あくまでフォルマリスティックな興味に閉じていて、そのルールを運用された地域でどのような未知のローカリティが発見できるのか、という視点が乏しかったように思われた。ルールの設定と運用が、建築基準法のように地域性の標準化に向かうのではなくて、それぞれの固有性を浮かび上がらせられれば、と思うのだが欲張りだろうか?
21日は滋賀県立大学で2.3回生の設計課題の合同講評会。
各学年から選りすぐられた作品のみの講評会なので、プレゼンテーションされている空間のそれぞれは魅力的。だが、なぜその敷地にその空間、形なのか、となるとイマイチ根拠が乏しい。つまり、発想はいいけど、コンテクストを巻き込んだ厚みのある提案にまで練り上げられていない。そして、それらを伝えるためのプレゼンテーションの技術も、まだまだ足りない。今後も学生みんなで切磋琢磨して、盛り上がっていってほしい。
今年の四月から久しぶりに設計演習なんてものを指導するようになって感じるのは、日本の大学における設計教育の課題は、設計に際して与える条件が現実に比べて甘すぎるのではないか、ということだ。法律も関係なし、予算も関係なし、ある程度用途が指定されているだけで、プログラムもほとんど学生におまかせだ。これでは、大学で何を教えようが、卒業後の実務と身に付けたものの隔たりが大きすぎて、ほとんどの人の頭の中から大学で学んだことが葬り去られてしまう。学生もそのことを自覚しつつも割り切って、「自分のやりたいこと」なんてことを平然とプレゼンテーションしてくる。社会人で、クライアントに対して「自分のやりたいこと」をプレゼンテーションするバカはどこにもいない。
妹島和世さんが書いた文章で僕が非常に共感したものに、
「建築を計画するということは、現実の混沌とした状況を整理することであり、建築の使われ方や生活をよりポジティブに想定できる整理の方法をその計画ごとに見つけることである」
というものがある。「混沌とした状況を整理する方法」とは「設計の技術」のことであって、ある程度の複雑な条件を与えられない限り、身に付くものではない。そして優れた計画には「その計画」特有の条件を、鮮やかに解くことが可能な「整理の方法」が提示されているものであり、その「整理」の手際の鮮やかさによって、魅力的な「建築の使われ方や生活像」が浮かび上がってくるものだ。
大学での設計演習の現状は、「混沌とした状況」を整理整頓する技術をろくに教えることもしないで、アイデアだけで設計が出来るような勘違いをさせているのではないか、と思う。その点で、スペインから研修に来ていた建築家たちは、複雑な条件の整理能力という点では徹底的に訓練されていて、当地の建築教育のレベルの高さを見せつけられた気がしたものだ。そして彼らのお気に入りの日本人建築家がSANAAだった理由も、決してあの空間のイメージに惹かれたのではなく、まさにその点だった。
土壁を塗る左官職人の基礎的な技量は、当日の天候、手に入る材料の性質、下地の状態、などあらゆる条件下で配合と工程を工夫し、壁面を平らに、圴一の表情に仕上げる、ということに尽きていて、その習得にために相当の年数をかけて修行する。それを身につけてはじめて、職人の個性というものが壁に現れてくるし、どんな現場でも、平らでも均一でもなくても(つまりコンテクストやルールが変わっても)、素人が見てもプロが見ても魅力的な壁を仕上げられるようになるのである。
日本の大学は設計演習で、「建築家」を育てようと思うより先に、まず「設計の職人」を育てるべく、努力するべきなのではないか。優れた「建築家」は、その先にしか生まれないと考えるべきなのではないか。これを読んでくれた学生諸兄は、与えられた最低限の設計条件くらいは万全に満たした上で、他の人も共感できるような魅力的な提案(自分がやりたいじゃなくて)を見せてほしいと思う。

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1 Comment

  1. 妹島さんの言葉、非常にしっくりきました。なるほど、ヨーロッパでSANAAが共感される理由の一つはそうかもしれませんね。

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