モザイク状の「美しさ」の探求」

 普通の人達が普通に暮らす場所は、自分たちにとって一番身近な材料で造られるものである。一つの地域で手に入る材料には必ず制約があるから、「建築家無しの建築」とも呼ばれた土着の民家は、自然とごく限られた材料と工法で建てられる。また、同じ地域に住む人達は宗教や生活習慣などを通じて同じ価値観を共有していたから、自ずと建物のデザインにも一定の共通項がつくられ、それが統一感のある街並みを造り上げる。「美しい」といわれる景観が造られるのは、おおざっぱにいってこんな理由であろう。そうした景観には、自分の住む場所とどれだけ環境が異なろうと強く心打たれるものがある。一方で、特に現代の日本のような高度に発達した資本主義社会で、かつて日本のあちこちにあったような民家や街並みが保存されているのを見るにつけ、僕は美しいと感じる反面嘘臭さを感じてしまうのだ。

 現在我々の身の回りには世界中から集まった、様々な素材があふれている。たとえば我々の食卓で見ることの出来る、食材の種類の豊富さを考えてみよう。北極海のあたりで採れた脂ののった鮭や、アメリカの小麦やトウモロコシ、中国の野菜や東南アジアのフルーツなど、世界中の食材の組み合わせとして、我々の食卓は成り立っている。建築の世界に置き換えてみても、事情は同じである。地元の杉の樹一本より、遠く太平洋を隔てたカナダから運ばれてきた杉の方が、運賃込みでも安かったというような話は、枚挙にいとまがない。大量輸送交通の発達がなせる技である。かくして我々の街では世界中から集まった建材が組み合わされ、建材の見本市のような建築が建ち並ぶことになる。

 そう考えると、遠くのモノも近くのモノも同じように、我々にとって身近なモノとして存在しているのが現代という時代であるといえそうだ。また、古い建物を再生して使う事業の隆盛が示すように、スクラップアンドビルドの時代が過ぎ、新しいモノも古いモノも同じ空間に共存して行かねばならない時代でもある。そんな時代には、様々な土地や時代の価値観がそれぞれに尊重され、その共存するさまに新たな「美しさ」が見いだされなければならないはずである。

 たとえば素材をやたらと
「素地」で見せたがったり、部材の「みつけ」をやたらと薄くしたがったりするのは、モダンデザインのめざす「美しさ」のもっとも特徴的な部分である。一方で、かつての日本のように木造の柱を真っ赤に塗ってしまったり、太くてどっしりとした柱や框を良しとする「美しさ」もある。それら異なる価値観を組み合わせつつ、空間に新たな「美しさ」をもたらすためには、空間にまつわるあらゆる手法を相対化して、それらを等価に、必要に応じて自在に使いこなすことが不可欠である。解りやすく言ってしまえば、モダンデザインしか出来ないデザイナーではちょっとまずいのではないか、ということだ。いま僕たちに求められているのは、異質なモノどうしを組み合わせたモザイク的な「美しさ」の探求という作業なのだ。
 そのためにはポストモダン的な「形態」の操作だけでなく、空間を構成する「素材」や、それらを加工するための「技術」、そして素材同士の組み合わせ方である「ディテール」までをうまく扱う、総合的な能力が必要となることはいうまでもない。

 京都という古い町に暮らして、いつも思うことがある。古い街並みがどんどん新しい建物に建て替わり、景観が乱れていくとよく言われるのだが、この僕が日々目にしている街並みって、そんなにひどいものなのだろうか。むしろ、ぐちゃぐちゃに入り交じったこのモザイク的な街並みを前提に、このなかに「美しさ」だとか「面白さ」を見いだしていくしか、可能性はないんじゃないか・・・と感じてしまっているのだ。僕が古いモノと新しいモノをいささか強引な手つきでもって組み合わせたりしているのは、そんな新しい美学を開拓してみたいという誘惑に駆られてしまっているからなのである。

「comfort No.80」建築資料研究所 (2004年10月 掲載)