日本からの飛行機の長旅で疲れた我々は夕刻ようやく宿泊予定のホテルに辿り着くと、それでも荷物をベッドの上にほっぽりだして旧市街の中心であるジャマ・エル・フナ広場へ向かった。太陽が沈むと同時に吹き始めた涼しい風に誘われて繰り出した人々で街路は賑わい、広場には続々と人並みが押し寄せている。屋台での料理におしゃべりもそこそこに食らいつく人々や、様々なパフォーマンスを繰り広げる大道芸人たち、彼らを取り囲んで歓声を上げる観客の興奮の高まりで広場には我々が今まで眼にしたことがないような喧噪に満ちた光景が広がっていた。マラケシュという都市と我々との最初の出会いである。
メディナと呼ばれるマラケシュの旧市街は見通しの利かない細く曲がりくねった道が錯綜し、一度迷ったら永遠にさまよい続けなくてはならない気がするほど複雑だ。人々の移動は徒歩か自転車、小型バイク、そして車が入れないため荷物の運搬は今でもロバが主役である。店舗が軒を連ね人通りの絶えないスークと呼ばれる街路から外れて脇道に踏み入ると、そこは一転して静寂の支配する人の気配すら無い空間。樹木もない街路に面して見えるのは、高い壁と頑丈な樹の板で作られた住宅の扉のみ。マラケシュでは、街路に当たる強烈な日差しとその結果生まれる深い影が隣り合うのと同様、喧噪と静寂のコントラストが極めてミクロなスケールの都市空間で共存していたのが驚きであった。
メディナの街路空間は狭く左右に折れ曲がり意外性に富んでいるが、基本的に赤茶色の壁に住戸の扉がポツポツと並ぶだけで、色彩的には変化に乏しい単色の世界である。一転して、それぞれの壁の向こうには全く別の魅惑的な世界が広がっていることは案外知られていない。生い茂る樹木と噴水があり、極彩色のタイルで美しく床や壁を装飾された中庭の空間はリヤド(「リヤド」はアラビア語で庭園の意)と呼ばれる。色彩豊かなリヤドは宮殿やモスクはもちろん、イスラーム学校から庶民の住宅に至るまで必ずその中心に設けられ、決して欠かすことのできない癒しと安らぎの空間だ。そのイメージは砂漠の中に忽然と現れた緑の楽園であり、オアシス都市マラケシュの姿を象徴している。一枚の壁を隔てて単色の世界と極彩色の世界が入れ替わるコントラストもまた、この都市のもう一つの魅力である。こうして我々は道を曲がったり扉を開けるたびにガラッと切り替わるマラケシュの都市空間の魔力に取り憑かれ、強烈な日差しのなかを疲れを忘れてマラケシュの街を歩き回ることになった。
ダルDARと呼ばれるマラケシュの住居はそのほとんどが二階建てであり、その中心に快適で美しく緑豊かなリヤドを持つ。街路に対しては閉鎖的で部屋の窓も設けないのに対して、リヤドに対しては大きな扉や窓をとって、内向きに開放的な造りとなっている。部屋の前面にはブルタールと呼ばれる柱廊をもうけて、強烈な日差しを防ぎ涼しさを呼ぶ工夫がされている。
リヤドの装飾のモチーフには、偶像の崇拝を禁じられているイスラーム文化圏の特徴的な文様である幾何学模様や、神を讃えるアラビア文字を織り交ぜた唐草文様が用いられる。杉の扉や天井には木彫刻、壁には石膏彫刻、噴水の大理石にも彫刻が施され、床や腰壁に用いるモザイクタイルはカットされた小片を組み合わせて複雑な幾何学模様を描いている。また窓枠に用いられる格子には鍛鉄の組み合わせによる唐草文様、照明器具は真鍮板を切り抜いて同様の装飾が施される。装飾に注がれる膨大なエネルギーは、その宗教的制約ゆえに具象的表現に向かうのではなく常に抽象的な図像世界での複雑さの探求に向かうのであるが、尖頭アーチやドームにおいて二次元世界での成果が三次元に投影されるに至ると、もはや抽象という言葉が当てはまらぬほどの造形物となって立ち現れる。めくるめく装飾に埋め尽くされた空間に身を置いていると、床や壁や天井などの空間の構成要素の区別は消え去ってしまい、自分が文様の小宇宙に漂っているかのような浮遊感覚に満たされていく。
カットワーク・タイルの希少性
イスラーム文化圏で欠かすことのできない建築材料であるタイルは、ここマラケシュでもリヤドを装飾するための素材として非常に重要である。タイルなしでリヤドは成立しないといっても良い。タイルは耐水性に優れた材料であり、耐摩耗性も兼ね備えた素材であることから、主としてリヤドの床や腰壁に使われるのだが、色とりどりのモザイクタイルを組み合わせた複雑な幾何学紋様があらゆる面を埋め尽くす様は圧巻である。
モロッコに今も伝わるモザイクタイルの技術は、単色の施釉タイルを打ち掻いて製作されることからカットワーク・タイルとも呼ばれ、技術的には13世紀ごろに成立したといわれる手法である。14世紀以降中東を中心とするイスラーム文化圏でモスクなどの装飾に大々的に使われたが、膨大な手間がかかることなどからほとんどの地域では失われてしまった貴重な技術でもある。
「ゼリージュ」と「ベジュマット」
マラケシュをはじめとするモロッコの建築で最も眼にする機会が多いのは「ゼリージュ」と呼ばれる施釉タイルによるモザイクタイルである。ゼリージュは焼成時の大きさは一様で、いったん縦横100ミリ四方、厚さ12ミリ程の大きさに製作される。伝統的に使われてきたタイルの色は白、黒、青、緑、黄、赤、茶色の七色、近年は水色なども加わって10色程度のバリエーションがある。それをジュレージと呼ばれる加工職人が工房で幾何学紋様のパーツの形に小さく打ち掻き、各パーツを組み合わせることで複雑な文様を完成させる。幾何学紋様のパーツのバリエーションは360種類以上といわれ、それぞれの形に「イチジクの葉」、「オリーブ壺」などの名前があり、ジュレージはそれら形と名前全てを記憶しているという。また加工されたタイルの施釉面は隣接するタイルと隙間無く並べられ、目地がほとんど無いほどの精度で組み合わされるため模様と色彩の輪郭が明瞭で、微細なパターンの中にそれぞれの色が埋没せず、華麗さに満ちた表現を可能にしている。
リヤドの空間で見ることができるもう一つのタイルが「ベジュマット」と呼ばれる無釉タイルである。色あいは焼成時の色むらによって赤茶色から象牙色まで幅があり、その後の経年変化によって最終的には深い小麦色に落ち着くが、素焼きの質感を生かして大らかで煌びやかさを控えた空間をつくる場合に用いられる。ゼリージュが焼成後にカットして使用されるのに対し、ベジュマットは焼成前の製造過程において八角形や長方形などに整形され、焼成後も形を整えることなく使用される。タイルの大きさは一辺が5~10センチの長方形や多角形で、基本的に床面や巾木などの部位に使用される。ゼリージュに比べてタイル一枚が大きいのでそれほど複雑な文様を構成することはないが、場合により小さな施釉タイルと組み合わせて使われたり、中央の噴水周りのみ大理石を用いたりと他の素材との組み合わせの中で用いられる。
リヤドを巡ってメディナを歩き回る我々は、その道すがらリヤドを支えるあらゆる職人の工房を見かけてはその仕事ぶりを垣間見ることができた。多くの地域で失われた技術が今も生活の中に脈々と息づいているという意味で、マラケシュは中世の時間がそのまま流れている希有な都市である。
モザイクタイルの技法
・ 原材料
材料 タイルの原材料は粘土のみ。ゼリージュに使われる粘土とベジュマットに使われるものは基本的に同じである。古都フェズの近郊で採取される粘土の質がモザイクタイルには最適とされ、ここマラケシュでもフェズから運ばれた粘土でタイルを製作している。
浸水 乾燥した粘土の塊を鎚で拳大の大きさに砕いて地面に掘ったプール上の穴に入れ、水に浸して2日ほどおくと粘土が水を吸って柔らかくなってくる。柔らかくなった粘土のプールに職人が入り、硬い部分を取り除きながら柔らかくなった粘土を地面に積み上げていく。
成形 柔らかい粘土を型に入れて板状に成形する作業。まず地面全体に広くタイル焼成時にできる灰を撒く。これは未乾燥のタイルが地面に接着しないためのもの。次にロの字型に組んだ木の枠(幅120、長さ250、厚み30くらい)を水で濡らし、地面に置いてその中に柔らかくなった粘土をドサッと置き、表面を手で均して型を抜く。続いてまた型枠を水で濡らし・・・の繰り返しで板状の粘土を量産していく。一つを作るのに5秒とかからない。瞬く間に地面が粘土の板で覆われていく。
整形 成形した粘土板を一昼夜干し、水分が減って羊羹くらいの硬さになった状態で、不揃いな大きさを揃え、規格の大きさに整える作業である。20ミリくらいの厚みのある羽子板状の道具で叩いて粘土板の厚みを15ミリくらいまで叩き締め、その後型板に添って粘土を所定の大きさにカットする。それらを再び地面に並べて直射日光で乾燥させる。
焼成 日干し煉瓦を積んで作ったドーム状の窯がタイルを焼く窯である。窯の内部は燃料を燃やす下部とタイルを積み上げる上部の二層構造になっており、上部と下部は床に均等に空けられた直径20センチくらいの穴でつながっている。乾燥させた粘土タイルは、火がうまく行きわたるように透き間を空けて積み上げられる。ドームの横の出入口は着火前にワラを入れた粘土を塗りつけて塞いでしまう。焼成に用いられる主燃料は、特産物であるオリーブオイル製造後に残るオリーブの絞りかす。砂漠地域でのタイル製造は燃料の確保が最大の問題であると睨んでいたが、残った油分で強力な火力を得ることができる砂漠の知恵だ。着火時には乾燥させたオリーブの枝も用いられる。使用前に篩で塊を取り除かれ粉粒状になったオリーブの絞りかすは、約60秒ごとに一定量ずつ窯の中に放り込まれ、そのたびに火力が上がってドーム上の穴からは炎と黒い煙がどっと吹き出す。火入れは気温の下がる日没後に行われ、三時間程度の焼成のあと自然冷却させ、明朝から窯出しを行う。
施釉 素焼き状になったタイルは、ベジュマットとして使われるものはそのまま出荷され、ゼリージュ用は表面に釉薬をかけて再び同じ手順で焼成される。
カット モザイクタイプ 焼成された施釉タイルはジュレージと呼ばれる専門のタイル職人のもとで加工される。加工前の状態は100ミリ四方くらいの一様な正方形である。加工の種類は幾何学模様のパーツ状に打ち掻いて組み合わせるモザイクタイルタイプと、形は正方形のまま表面の釉薬部分のみ薄く削り取って唐草文様などを浮き上がらせる彫刻タイルタイプ(トーレック)に大別される。モザイクタイルのカット作業は二人一組で行われ、型の墨付け、線に沿って大まかなカット作業を行う人から、カット面を楔状に整える人へと手渡される流れ作業になっている。前者の作業を熟練者が行い後者を初級者が行うことになっているが、初級者は熟練者の動作を隣で見習いその結果であるタイルを常に眼で確認できるという意味で、優れた技術伝承システムにもなっている。それでもジュレージの一人前の職人になるには10年はかかるという。
彫刻タイルに用いられるタイルの釉薬の色は、文様が鮮やかに浮かび上がる黒色が用いられる。形のカットは行わず、100ミリ四方のタイルをそのまま表面を彫刻して使用する。彫刻の下絵は表面に砂糖水を塗ったタイルの上に型板を載せ、上から石灰粉を振りかけておこなう。白くなった部分を鑿で薄く削り取る作業は一枚あたり10~15分程度かかり、曲線が多いこともあって大変手間のかかる作業である。これらの作業すべてをメンカーシュと呼ばれるタイル用鑿でカット・成形していくのだが、道具を使い分けるわけでもなくあらゆる作業をその道具一本でこなしてしまう技量は超絶技巧というにふさわしい。
パネル化 加工されたモザイクタイルは一枚一枚を現場で貼っていくわけではない。工房で装飾面のタイルパターンをあらかじめ組み合わせて接着し、持ち運び可能なサイズのモザイクパネルに分割し、それらを現場で取り付けることで不要な手間を省略し同時に施工精度を確保している。まずは、タイルの仕上げ面の形状に応じて平面や曲面状の型の上に下絵を描き、その絵に添って加工されたタイルを釉薬の面を下にして並べていく。このときにタイル間に設けられる目地の幅は限りなく0に近く、最大1ミリ未満で納められる。つまり極めて「逃げ」の少ないディテールであるために、この工程を支えるのは個々のタイルが正確に加工されていることが前提となる。正確に並べたタイル裏面に、水で練った石膏もしくはセメントを流し込み、同時にサボテンの一種から造られる割れ防止の繊維を埋め込むことで一体化したタイルのパネルが完成する。
現場施工 モロッコの建築のほとんどはレンガ造であり、パネル化されたタイルは宮殿やモスク、住宅の躯体であるレンガ面に張り付けられることで建築に彩りを添える。壁に貼る場合は石膏かセメントを使ってレンガに固定し、床面に施工される場合は、いったん石灰モルタルやセメントモルタルで下地を造り、その上にタイルを固定する。特に強度の劣るベジュマットの場合は土と砂を混ぜて強度を落としたモルタルを敷き、その上にタイルを貼る。
・ 職人 モロッコにはあらゆる技術職について「マーレム」と呼ばれるモロッコ王国から認定された特別な職人が存在する。モロッコのタイル職人の作業すべてを統括するのも「マーレム」とよばれる人物であり、職人としての技量はもちろんクライアントとの交渉能力も必要とされる総合管理職のような人物である。特にタイルのマーレムは素材である粘土の材質から焼成のコツ、切削加工から現場での取り付けに至るまで具体的に指導ができなければならず、幅広い知識が必要とされる。職人はまずそれぞれの工程において先輩のもとで技量を修得し、その作業におけるスペシャリストを目指すが、マーレムのような人物の多くは先祖代々その技術を受け継いできたという人が多いようだ。
「iA interior/ARCHITECTURE 03」(11月28日発行・エクスナレッジ社)
連載「タイルが紡ぐ小宇宙」において「ゼリージュの小宇宙 リヤドを支える伝統技法」を執筆
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