建築学科に在籍した学生時代、授業もそっちのけで旅行ばかりしていました。建築史の本流ヨーロッパは、ほとんど興味なし。なるべく長く旅行するために安いフェリー船で中国に渡り、バスと電車を延々乗り継ぐ。ヒマラヤを越えイランの砂漠を横切りロシアのタイガをぬけ、エジプトのピラミッドの上で迎えた御来光。上手くもないギターを片手に旅しているから、あちこちで日本の歌を歌う羽目になる。その道すがら観光地めぐりをするわけですが、それはすなわち建築めぐりなのですね。

旅の中で一番刺激的だったのは、日本での常識を覆されてしまうようなその土地独特の文化、そしてそれらを包み込んでいるさまざまな民家でした。その土地の気候や文化に合わせてその土地の材料で建てられた民家は、まさに生きている建築、人々の生活にとって切実なものです。街並みがどうこうとかでなく、ただ生きるために空間がどうあるべきかが突き詰められていて、デザインというものの本質を見た気がします。

大学院卒業後は、現場を知らずに設計はできない!という単純な思いから建設現場で働きはじめました。お世話になったのは現代では珍しく土壁を専門に扱う左官職人さんで、仕事の多くが文化財クラスの建物の修復現場。それで大学出てんのけ?と要領の悪さをからかわれながらも仕事していると、昔の職人さんがどんな仕事をしていたか手に取るように分かってきます。どんな手順で、どんな配合で壁を塗っていったのか。一口に土といっても色んな色や性質の土があり、配合や仕上げ方を変えるだけでガラリと表情が変わる。その魅力に取り憑かれた5年間の左官修行では、デザインを支える技術の奥深さを痛感しました。

独立して設計事務所を構えるようになり、幾つかの町家の再生を手掛ける機会がありました。私にとって京都の町家は、旅先で見てきた世界各地の民家と同じようなもの。だから街並み保全よりも、この街で人々がどうやって生きていくのか、そのために町家に何が可能かということに興味があります。建築や住まいはその人の夢を実現する手段に過ぎないと考えれば、当たり前のことです。町家の再生では文化財の修復と違って、元の建物の良さを生かしながらも新しい挑戦をすることが出来ます。その中で土壁も、伝統の技術をアレンジすることで新たな技術を創造できる可能性があります。優れた技術が残る京都でこそ、新しい空間を生みだすことが出来るはずです。

旅先の上海では超高層ビルの真下の道端に机を出して、お爺さん達が麻雀を楽しんでいました。デリーでは牛がたむろするバザール片隅のインターネットカフェで、世界中の旅行者が自国とメールのやりとりをし、地元の人々と衛星放送を楽しんでいました。そんな新旧、聖俗ごちゃ混ぜになった、活気にあふれた街が私の理想。建築を設計することで、理想の街と生活を実現していくのが私の使命です。

『京都新聞』コラム「双曲線」(2003年4月23日夕刊 掲載)