夜もとっぷりと更けた雨上がりのリスボンの街、我々は空港から市内に向かうタクシーに乗りこんだ。何が気に入らないのか不機嫌な運転手は些細なことに苛立ちの声を挙げ、真夜中の道をレーサーの如く飛ばす。窓の外に見えるのは薄暗く街を照らすナトリウムランプの光と、しっとりと濡れてその光を反射する石畳のみ。連れて行かれた先は、曲がりくねる石畳の坂を上り切った先にあった、小さなホテル。我々はブラジル移民が切り盛りする近くのバーで軽く飲んで、それそれのベッドに倒れ込んだ。
そんな夜から一夜明けた朝にホテルのテラスから見た景色は、赤い瓦屋根がびっしりと並ぶリスボンの街、驚きの大パノラマであった。テージョ川の先には、かつて大航海時代にポルトガル人達が世界に向けて旅立っていった大西洋がある。今はヨーロッパの中でも経済的に豊かとはいえないポルトガルであるが、世界の海を舞台に繁栄を謳歌した時代があった。今回の旅は、そんな輝かしい歴史を持つポルトガルの建築にとって欠くことのできない素材である、タイル「アズレージョ」を巡る旅である。

アズレージョとはなにか

リスボンの街を歩くと、至る所でタイルに出会う。この街でよく見かける壁一面のタイルの脇に鉢植えの花が並び、ベランダに洗濯物がはためく風景はこの街ならではのものだ。また、店舗の内装や、駅や市場などの公共空間においても、壁面を飾るのが生き生きとした装飾を施されたタイルであることは珍しくない。個人的に最も印象に残っているのが、人里離れた道路脇にぽつんとたたずんでいた、タイルに描かれたマリア像だった。ラテンヨーロッパの国々では、通行者の安全を願って道路脇にマリアの像を祀った祠を置く習慣がある。こうした人目に付かない、しかし人々の想いの込められた場所にまでタイルを用いるということに、ポルトガルの人々とタイルとの深い結びつきを垣間見た思いがしたのである。

ポルトガルはでタイル一般のことを指して「アズレージョAzulejo」という言葉が使われる。その語源をラテン語系の言葉で「青」をあらわす「Azur」に由来するという説明が多いが、むしろ我々が最初に訪れたモロッコで見た、モザイクタイル「ゼリージュzellige」が語源となっていると考える方が自然だ。何故ならここポルトガルのタイル文化そのものの起源が、アフリカのイスラーム教徒によって持ち込まれたものだからだ。

カトリック信仰が普及していたイベリア半島にアフリカ方面からモーロ人と呼ばれるイスラーム教徒が侵入したのは、西暦711年。わずか5年のうちにイベリア半島を征服した彼らは、当時のヨーロッパ人より格段に進んだ文明を持っており、あらゆる分野において既存の文化を刷新していった。このモーロ人のイベリア半島征服がきっかけとなって、ヨーロッパに製陶技法が持ち込まれ、ポルトガルのアズレージョの歴史が始まる。一方で、キリスト教徒はその支配に反発し、「レコンキスタ=国土回復運動」が開始された。数世紀に及ぶ抵抗活動のすえ1249年にポルトガルはレコンキスタを完了するが、その後も残留イスラーム教徒の建築様式とキリスト教建築様式が融合したムデハル様式が生まれ、イスラーム文化の影響は受け継がれていく。

初期のアズレージョ

モーロ人によって持ち込まれた最初期のアズレージョは、幾何学状のパターンにカットされたタイルを張り合わせたモザイクタイル(もしくはカットワークタイル)と呼ばれるものである。偶像崇拝を禁じられたイスラーム圏において、モザイク・タイルは神を称えるための複雑な幾何学パターンを表現するのに最も適した技術であった。14世紀にスペインのグラナダに完成したアルハンブラ宮殿では、モザイク・タイルを中心とした精緻なタイル装飾を見ることができる。ただし、この技術はそれぞれのパーツを手作業でカットしなくてはならないことから非常に高価な、限られた人々のためのものだった。そこで、タイルの表面に複数の釉薬でパターンを描くことのできる、つまり省力化が可能な「クエンカタイル」と「クエルダセカタイル」とよばれる二つの技術が開発された。これらの技術は間もなくヨーロッパにも伝わり、15世紀頃にはイベリア半島でもこの種のタイルが生産されるようになった。

クエルダセカ・タイル(スペイン語で’乾いた紐’という意味)は模様の輪郭をマンガンの黒い粉を油に混ぜて描き、その縁取られた輪郭の中に太い筆の先などで釉薬を落とし流し込んで行く技法である。流れていった水性の釉薬は輪郭線の油のところで止まり、ふっくらと釉薬の部分が盛り上がった状態で焼きあがるため、遠くから見ると一見モザイクタイルのようにみえる。
また、クエンカタイルは、タイル素地の粘土がまだやわらかいうちに輪郭線の部分が盛り上がるように押し型で凹凸をつけ、素焼き後に凹部分に釉薬を流し込んでいく技法である。いずれにしてもこの二種類の技術の開発によって、一枚のタイルに複数の釉薬を使うことが可能になり、複雑な装飾タイルを効率よく生産することができるようになった。

15~16世紀のポルトガルでは、これらイスラーム起源の技術を元にしたアズレージョによって、建物が彩られるようになっていった。当時のアズレージョのデザインは最初期においてはイスラーム文化の影響の強い、幾何学的なパターンが主流であったが16世紀頃になるとルネッサンスの影響で次第に植物など具象的なモチーフも取り入れられるようになる。

アズレージョの発展

16世紀には、また新たな技術がイタリアのファエンツァを中心に広まり、ヨーロッパ各地に伝わった。イスラーム文化圏からスペインのマジョリカ島をへてヨーロッパに伝わったことから「マジョリカタイル」と呼ばれるこの技法は、素焼きタイルに酸化錫を多く含んだ白色釉薬を施して下地とし、その上に釉薬で水彩画のように自由に着彩を施すことが出来る点で画期的な技術であった。その後オランダに伝えられてフランドルタイルと呼ばれる独特のタイルに発展するが、その影響でポルトガルでもオランダのタイルが輸入され、またイタリアやオランダの画工が各地に移住することで技術が広まった。まもなくイベリア半島でも「マジョリカタイル」の生産が始められ、建築を彩るようになった。

装飾のモチーフもルネッサンスやバロック絵画の影響で、タイルをキャンバスに見立て、聖書の場面や当時の人々の生活が生き生きと描かれるようになっていった。これらのタイル技法による建築装飾で最もバリエーション豊かな表現を見ることができるのが、歴代王朝の夏の離宮だったリスボン郊外のシントラ宮殿である。モザイクタイルからバロック風のタイルに至るまで、まさにポルトガルのアズレージョの歴史が凝縮された建築といってよい。

ポルトガルの繁栄とアズレージョ

多種多様なアズレージョの技術がポルトガルに定着した頃と時を同じくして、ポルトガルの歴史は、最盛期を迎える。15世紀には北アフリカのセウタ攻略、喜望峰迂回によるインド航路の発見と続く海外進出によって大いに勢力を拡大したポルトガルでは、海や航海に関係のあるモチーフや外国で見たエキゾチックな風物を建築物の表面に刻み込んだ、装飾豊かな様式であるマヌエル様式が生まれた。世界遺産にも指定されているリスボンのジェロニモス修道院が代表的な例だが、同じ建築家によるセトゥーバルのイエス教会では、ねじれて立ち上がる装飾的な柱と競い合うように幾何学模様を描く青白の二色のアズレージョが壁面全体を覆い尽くす。

18世紀以降になるとオリエントの染付陶器の影響から白地にコバルトブルー単色で着彩を施した白地藍彩のアズレージョが流行し、宮殿や教会の大壁面を飾るようになった。パラシオ・ベルモンテホテルやセトゥーバルのサン・フェリペ教会がその例で、大らかさと華やかさを兼ね備えたポルトガルらしい独特の装飾空間を演出している。その後もポルトガルの繁栄の中でアズレージョは装飾としての新たな役割や表現を獲得していった。1755年にリスボンに発生した大地震では既存の市街地のほとんどが崩壊したことから、病や災害から守ってくれる聖人や聖書に題材をとったアズレージョが建物のファサードやエントランスに飾られるようになった。また18世紀後半にはフランスの影響で黄・緑・赤・青の多彩な色彩を使った華麗で優雅なロココ様式のアズレージョが広く用いられた。

タイルの製法が工業化され銅版印刷などによるより安価で大量生産に適したタイルが主流になってからも、ポルトガルでは同じように人々の生活をタイルが彩り続けている。リスボンの地下鉄駅では、それそれの駅の壁面のタイルのデザインをアーティストに依頼して、無個性になりがちな駅空間を特色のあるものに仕上げることに成功している。万博の開催に合わせて建設されたオリエンテ駅では、日本のアーティスト草間弥生の作品も見ることが出来る。またポルトガル第2の都市ポルトのほとんどの地下鉄駅は建築家エドゥアルド・ソウト・デ・モウラの設計によるものだが、そこでは現代的でシンプルな空間に、薄青色のアズレージョを大量に使用している。アルヴェロ・シザ設計の万博パヴィリオンも、大壁面を埋める単色のアズレージョが印象的な建築である。
このようにアズレージョはポルトガルの栄光の時代を代表する素材として、その都度世の中の流行を取り入れながらポルトガルの建築を彩り続けてきた。そして栄光が去ったあとも、ポルトガルの人々にとって欠かせない素材として現代に至るまで受け継がれている。

現代のアズレージョ製法

我々が訪れることの出来たアスレージョの工場 Fabrica Viuva Lamego社は、1849年創業の歴史あるアズレージョメーカーである。現代でも店舗の内装などによく使われる「マジョリカタイル」のアズレージョも、もちろん昔ながらの製法で作り続けている。現代でも行われているアズレージョの絵付けの手順は、白色釉薬の下地の上に細かい穴をあけた下絵を載せ、木炭の粉を刷り込んで転写する。その上で粉状の顔料を水で溶き、水彩画の要領で絵付けを行うというものだ。その日もポルトガル人の絵付け職人が伝統的な図柄のアズレージョを制作中であった。

現代のタイル生産現場では、乾式工法と湿式工法の二種類の製法が用いられており、同社ではあらゆる要望に対応できるよう両者の生産ラインが備わっている。湿式工法とは可塑性のある粘土を使ってタイルの形に成型するもので、伝統的なタイルの工法はほとんどがこの方法で制作される。乾式工法はタイル製造の技術史において画期的な技術のひとつで、粉末状の原料を型に入れ、高圧でプレス成形されることでつくられる。湿式工法と比べて粘土の乾燥時間が要らない、収縮・変形が少ないという利点があり、現代の大量生産されるタイルのほとんどはこの製法である。しかしポルトガルでは現代でも湿式工法による、多少品質にばらつきあのあるタイルが好まれ、Fabrica Viuva Lamego社ではおもに稼働させているのは湿式工法の製造ラインだということであった。またこの会社は現代建築家との協働により新しいタイプのアズレージョの開発にも積極的に取り組む会社として知られている。

タイル文化とアズレージョの可能性

タイルの原料である粘土は、石や樹木などの他の建設材料に比べて地球上のあらゆる地域で最も入手が容易い材料である。それゆえ地球上のあらゆる地域には潜在的にタイル文化が育まれる素地がある。建築材料としてのタイルを、歴史的に最も早い時期に文化と呼べるレベルにまで引き上げたのが、アジアからからアフリカに至るまで広大な広がりを持つイスラーム文化圏であった。交易網の発展に従って異なる地域の文化的交流がグローバルなレベルでなされるようになると、イスラーム文化圏で育まれた種子が世界中に伝播し、それぞれの地域性という肥料を得て様々な果実を実らせるようになった。またそれらも大航海時代を迎えてさらに他の地域に伝わって異種交配を繰り返し、また時代の変化を取り入れることでさらに豊かな果実を実らせるようになった。そう考えるとタイルの文化の魅力のひとつは、一枚のタイルの中に潜むグローバルな広がりを持つDNAとローカルなDNAの組み合わせの妙を読み解く面白さにある。三度にわたったこの特集でも、そうした視点で地域固有のタイル文化を見るよう努めてきたつもりである。

アズレージョは、グローバルな視点でいえばアフリカ経由のタイル文化とヨーロッパ経由のタイル文化が出会い、ポルトガルの歴史を経ることで育まれた、この地域固有のタイル文化である。特にバロックタイルによる大壁面のアズレージョは、比較的小面積の装飾に使われていたマジョリカタイルが、モーロ人のタイル文化と出会うことによって大規模装飾へと発展し、さらにオリエントから伝わった白地藍彩の染付陶器を模した色彩と、ヨーロッパの絵画文化を反映して生まれた、ポルトガル独自のものである。そしてこのアズレージョ文化は大航海時代の繁栄の時代を経ることで、ポルトガル人の「誇り」を表徴する素材として現代に至るまでしっかりとこの地に根を下ろすことになった。一つの文化が受け継がれるために無くてはならないのものが、それを担う人々の「誇り」である。我々がポルトガルで幾度となく眼にしたのも「アズレージョ」とそれを「誇り」に思う人々の姿であった。

現代のポルトガルでは、アーティストによる創作の対象として使われたり、現代建築においても素材そのものの質感を生かした単彩色のタイルとして用いられることで、アズレージョは新しい表現の場所を獲得しつつあるようにみえる。その試みの全てが成功しているかどうかは、時代を経てみないとわからないのかも知れないが、少なくともこの「誇り」を支え続けるに充分な先人の遺産がポルトガルにはのこっている。

 

「iA interior/ARCHITECTURE 04」(1月28日発行・エクスナレッジ社)
連載「タイルが紡ぐ小宇宙」において「ポルトガルのアズレージョ」を執筆