障子@今西家書院

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昨年から進めてきたプロジェクトが今年の夏ごろから次々と着工しそうで、色々と忙しい。その合間にワールドカップも観戦しなくてはならないので、よけいと忙しい。でも、予算調整というシンドイ作業が峠を越したので、あとは現場と力を合わせてつくりあげるのみ、楽しみだ。
毎週水曜日の滋賀県大は、行き帰り一時間ずつの琵琶湖沿いのドライブと、授業の前の学生達とのバスケットと、学生達への設計演習エスキス指導と、授業後のアユ取りとか研究会とか建築談義に加わったりとか、目一杯刺激をもらっている。
僕の優しい?エスキス指導ぶりを見て布野修司教授は「森田はもっと恐いかと思った」とおっしゃっていたが、学生時代の自分はそんな鬼教官になるみたいなイメージがあったのかな。当時の京都大学では、学生に対して平気で「君には設計の才能がない」などと言ってのける教官がいたりして、そんな指導に対してずいぶんと反感を持った覚えがある(布野先生は決してそんなことはいわなかったが)。そんな言葉に傷ついて、少なくない人が設計への熱意を失ってしまっていた。
設計の上手下手は99%が技術的な問題であって(だから大学で教えられるのだ)、まだ建築を学び始めて2年足らずの学生に対して、上達のスピードに差はあったとしても、才能もくそもないだろう。そんなことは本人が建築家として数十年仕事をしてみた上で、自分で感じればいいことだ。学生の設計がまずいなら、まずは自分に設計という技術を教える能力が足りないんじゃないか、指導が下手なんじゃないか、と疑ってかかるのが建築教師たるものじゃないのか?と、今でも思う。
そんな反面教師があったお陰で、デキル学生にも拙い学生にも、自分なりのペースで建築設計の面白さを発見してもらえるよう、丁寧につきあってるつもりだ。技術を身につけてもらうためには「教官が恐い」より「設計が面白い」ほうが、絶対に伸びると思うから。また、「コンセプト」もコンテクストやプログラムの特徴を生かす「技術」として有効であるかという点でのみコメントするようにして、個人的な志向や価値観や思想に関わる部分には何も言わない。それは今後の人生の中で自分で培っていくものだから。
たとえ自分ではあまりうまい設計が出来ないと感じている生徒がいたとしても、卒業まで設計に興味を持って取り組んでさえいれば、少なくとも他人の設計の善し悪しを見抜く能力は着実に育まれる。そんな彼らが優れた発注者や施工者や建築主事になってくれれば、社会の建築のレベルは間違いなく向上するし、それがその地域の生活の豊かさにもつながる。それは優れた建築家を育てるのと同じくらい、大学という建築教育機関にとって大事な使命だと思うのだ。
 ところで、バスケットの方は長いブランクで動かなかった体も、徐々にキレを取り戻して来た。ところが先日調子に乗ってトリッキーなプレーをして着地したら足首がちょっとよじれて軽く捻挫。やばいやばい、頭のイメージだけは現役並みによみがえって来たが、いかんせん体の方は20年落ち、全盛時のイメージの50%くらいの動きでやらないと、大けがをしそうな気がする。
最後に、現在事務所では設計スタッフと夏期のオープンデスクを募集しています。我々の事務所で仕事をすることに興味を持ってくださる方は、事務所のウェブサイトで詳細を確認してみて下さい。
写真は先日奈良で閉館間際に訪問した、室町中期の書院造りの遺構、今西家書院にて。障子が美しい。

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2 Comments

  1. I totally agreeです。森田さんみたいな先生を多分日本の若者は欲しています。建築の面白さを教える、エンカレッジすることで若者はのびていくと思います。ロンドンへのご訪問鶴首しております。
    しんじみやざき

  2. もりかず

    京都も素敵な街ですが、日本にはまだまだ知られていないけど魅力的な集落がたくさんありますね。滋賀県に通うようになってそれを強く感じます。学生には、自分たちが暮らしている地域の魅力についても気づいて、誇りを持ってほしいと思っています。それにはまず、旅をさせなきゃね。いい学生がいたらロンドンへ送り込ませてください!!

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