前回の何とも気楽な投稿の二時間前に東日本を地震が襲っていた。ちょうど事務所の昼食時だったが何の揺れも感じず、ここ数日に静原で撮った写真の投稿を済ませ、その後しばらくして地震があったこと、その後の津波の事態が尋常ならざることに気がつく。

胸騒ぎがして東京で手がけた仕事のクライアントにメールを送ると、家族も建物も無事とのこと。東京の妻の実家には電話がつながらないが、その後無事との連絡が入る。夜は静原の集会所で「静原マップ」の企画編集委員会。家に戻ると子供たちも夜更かししてニュースの津波の映像を食い入るように見ている。彼らもこの光景はおそらく一生忘れないだろう。歴史的な日となるであろう2011年3月11日はこのようにして暮れた。

土曜日は出町の現場の打ち合わせ、日曜日の午前中は小学校の行事に参加し、午後は静原マップのために近所の金比羅山に登って資料用の写真の撮影、といつもの日常が淡々と続く。twitterは被災地からの切実な書き込みであふれ、のどかな京都の日常を書き込む場所ではなくなってしまった。ネットも情報過多な割には全体を見通すことのできない断片ばかりで、見ても益はない。

建築家として災害の現場で役立てればと左官のシェルターの研究もしてきているが、まだまだ性能は不十分で、またどちらかというと海外の乾燥した地域向けのものなので、それが日本の現地の状況に対して少しでも役に立てるものなのかどうかはわからない。今はまず、それでも続く日常を、淡々と続けていくことしかできない。

写真は、静原と大原の間にある金比羅山の頂上からの、おそらく平安京の頃からほとんど変わらないであろう京都市内方向への眺め。